2005年 12月 21日
生きざま |
「その時歴史が動いた」というNHKの番組があります。今日取り上げたテーマが土方歳三、先週と先々週が山本五十六でありました。二人とも名前は知っているし、日本史の中では血湧き肉踊る(本当はいけない)戦い、動乱の中を生き抜いた武士(もののふ)であります。
本来は戦いの中にカッコイイというものを求めてはいけないのでしょうが、そんな事は考えもしない小中学生の頃、日本史の授業でスポンジの様に知識を吸収していったのが戦国時代であり、幕末の動乱から明治維新、太平洋戦争であったのです。ほとんどの人が信長秀吉家康を筆頭に戦国大名が入り乱れる戦国時代に興味が向くのですが、私はむしろ太平洋戦争に興味がありました。祖父が帝国海軍で軍艦に乗っていたため、いろいろな知識を幼い私に授けたためでしょうか。戦艦、空母、巡洋艦の名前はかなり豊富であり、小さい頃の知識は今も廃れていないようです。
それはさておき土方歳三は新撰組というのがパブリックイメージだと思うのです。もちろんそれは間違ではありません、日本史の授業でも新撰組=近藤勇、土方歳三という知識しか出てこないでしょう。しかし彼は京都から江戸、東北と幕府軍の中心として薩長官軍と戦い続けました。落城前の会津鶴ヶ島城にも立ち寄っているはずです。そして仙台で榎本武揚らと合流し蝦夷函館へ落ち延びていくのです(このあたりは社会の教科書には載っていない!)私はこの事実を榎本武揚に関する書物で知ったのです。函館に新政府を樹立した時には土方も閣僚として参画しているのです。そこにはマゲを切り、袴を脱ぎ捨てた土方がいたはずです。
結果的に函館新政府は官軍に攻め込まれ降伏、榎本らは生き延びますが、土方は最前線で戦死という結末を迎えるのです。捉えられた榎本はのちに赦免され、明治政府の要職に迎えられ外交でかなりの実績を残して行くのですが、判官ひいきの日本人は生き延びた榎本より函館で散った土方歳三に肩入れする人が多いでしょう。もちろん私もそのひとりなんですが。
武人(もののふ)の生き様を見せつけてくれたこの三回の番組でありました。最近なんか惰性で毎日を過ごしてしまっている気がして、うまく言葉で説明出来ないのですが反省の日々でありました。自分のなかに核となるもの信念を持ち凛として生きてたい、理想はそうであってもなかな実行するのは難しいのですよね。ただ出来る事は悔いなく毎日を生きていくことでしょうか。
本来は戦いの中にカッコイイというものを求めてはいけないのでしょうが、そんな事は考えもしない小中学生の頃、日本史の授業でスポンジの様に知識を吸収していったのが戦国時代であり、幕末の動乱から明治維新、太平洋戦争であったのです。ほとんどの人が信長秀吉家康を筆頭に戦国大名が入り乱れる戦国時代に興味が向くのですが、私はむしろ太平洋戦争に興味がありました。祖父が帝国海軍で軍艦に乗っていたため、いろいろな知識を幼い私に授けたためでしょうか。戦艦、空母、巡洋艦の名前はかなり豊富であり、小さい頃の知識は今も廃れていないようです。
それはさておき土方歳三は新撰組というのがパブリックイメージだと思うのです。もちろんそれは間違ではありません、日本史の授業でも新撰組=近藤勇、土方歳三という知識しか出てこないでしょう。しかし彼は京都から江戸、東北と幕府軍の中心として薩長官軍と戦い続けました。落城前の会津鶴ヶ島城にも立ち寄っているはずです。そして仙台で榎本武揚らと合流し蝦夷函館へ落ち延びていくのです(このあたりは社会の教科書には載っていない!)私はこの事実を榎本武揚に関する書物で知ったのです。函館に新政府を樹立した時には土方も閣僚として参画しているのです。そこにはマゲを切り、袴を脱ぎ捨てた土方がいたはずです。
結果的に函館新政府は官軍に攻め込まれ降伏、榎本らは生き延びますが、土方は最前線で戦死という結末を迎えるのです。捉えられた榎本はのちに赦免され、明治政府の要職に迎えられ外交でかなりの実績を残して行くのですが、判官ひいきの日本人は生き延びた榎本より函館で散った土方歳三に肩入れする人が多いでしょう。もちろん私もそのひとりなんですが。
武人(もののふ)の生き様を見せつけてくれたこの三回の番組でありました。最近なんか惰性で毎日を過ごしてしまっている気がして、うまく言葉で説明出来ないのですが反省の日々でありました。自分のなかに核となるもの信念を持ち凛として生きてたい、理想はそうであってもなかな実行するのは難しいのですよね。ただ出来る事は悔いなく毎日を生きていくことでしょうか。
by akihi1971
| 2005-12-21 22:55
| ひとりごと