2004年 07月 14日
ご指名あり |
本日アルビレックス新潟から一枚のリリースが出されました。内容は「この度、当クラブ所属の宮沢克行選手(27)が、モンテディオ山形へ期限付き移籍することが決定いたしましたので、お知らせいたします」というもの。来るべき時がきたかというのが偽らざる印象です。J1の1stステージを14位で終えた新潟は戦力の補強が必要でした。しかし戦力の保有数(A契約でしたっけ?)に上限があるため、現有戦力の放出が同時に必要となりました。まず高卒ルーキー酒井、栗原明の二人をシンガポールSへレンタル移籍させました。これはシーズン開幕からの予定行動、高卒ルーキーはある程度体を作ってからシンガポールSで実戦経験を積ませる、つまり武者修行です。そして平間、ホベルト、松尾と立て続けに3名の獲得を発表する。さらに新戦力を獲得するため数名をJ2へレンタル移籍がさせるのではないかという噂がありました。
しかしレンタルという意味では相手が欲しがる選手でなければいけません。では誰が該当するのか?という仲間内のバカ話では「宮沢」という名前がやはり出てきておりました。出場機会に恵まれないが、魅力的な選手といえば現在の新潟では真っ先に名前が出てくる選手だと思います。そして今日正式発表がありました、予想された事とはいえ「寂しい」というのが感想です。
私と宮沢のファーストコンタクトは忘れもしない2002年8月7日、J2第23節のモンテディオ山形戦でした。平日のナイターということで仕事を終え急いで新潟スタジアムに駆けつけました。その試合は新人ながらボランチのポジションを張っていた安英学が累積で出場停止、そこで宮沢に出番が回ってきたと記憶しています。その日の新潟のスタメンを振り返るとGK野澤、DF小林、セルジオ、丸山、神田、MF秋葉、宮沢、寺川、ベット、FWマルクス、船越での4-4-2、正直なところ宮沢だけ知らない選手であった。今ほどイレ込んでいなかった当時、全部の選手の名前を知らなかったのである。ベンチには木寺、三田、山形、深沢、氏原といたのだがこれを含めても知らない選手は三田(!)と宮沢で(!)あった。その知らない選手が目の前で2ゴールを決めて2-0で宿敵モンテディオに快勝したのだから強烈な印象を受けました。しかもそのうち1本はFKから直接左足で放り込んだゴールであった。この試合に89分から出場しガツンと行き過ぎて、イエローを貰った高卒ルーキー山形辰徳(確か彼はこの試合がデビューのはずである)と2ゴールの宮沢克行、この試合で二人の顔と名前と背番号が私の中にいきなりインプットされた試合であった。
家に帰り調べてみると宮沢選手は今年浦和から新潟へ移籍したらしい、移籍してきた理由はよく覚えておりませんが、理由はともあれ前レッズ所属、当時の新潟で考えたら素晴らしいキャリアであることは間違いありませんでした。しかし同時にレッズではあれだけのFKを蹴る選手が出されてしまう、レベルの差を思い知らされたような気がしました。この頃はボランチでの起用が多かった宮沢ですが3クールへ入った頃から、左サイドアタッカーとしてベットとの併用が多くなってきました。
そして2003年は左サイドでの起用がほとんどであった。なぜなら山口素弘が移籍してきたため、ボランチに空きポジションはなくなったのである。スタメンで迎えた埼玉スタジアム2002での開幕戦、大宮アルディージャとの試合では終了間際にFKを直接ゴールへ放り込んで、左足が健在であることを証明してみせた。そんな幸先の良いスタートを切ったのだはずであったが状況が一変した、同じ左サイドアタッカーとしてファビーニョが加入してきたのである。左サイドはファビ起用がメインとなってしまい、ポジションを奪われた格好になった。それでもベンチには入り続けることになった、反町監督も宮沢の左脚は必要と考えたのであろう。ファビがダメな時にはスタメンもあったが、控えというポジションでJ2第3クールへ進んで行った。ファビもマルクスと組んで活躍していたので当然と言えばそれまでなのですが。
しかしそのファビが第30節ヴァンフォーレ選で頬骨を骨折、数試合ダメな状況が発生した。そうなれば当然のごとく宮沢の出番である、31節から36節までスタメン出場し6試合3得点と爆発したが、ファビが復帰するとまたベンチスタートに逆戻りとなってしまった。ちなみに昇格争い終盤の第43節アビスパ福岡戦、反町監督は右ファビ、左宮沢という布陣も試している。シーズン通じてスタメン・ベンチを含めてほとんど試合に登録されていた宮沢でしたが、昇格を賭けて戦った最終戦はベンチ登録されませんでした。これは運命の悪戯だったのか?気合いを入れる為に丸坊主にまでなっていたのに・・・。ともあれJ1のステージに上がった2004年、宮沢に転機が訪れたのである。(つづく)
しかしレンタルという意味では相手が欲しがる選手でなければいけません。では誰が該当するのか?という仲間内のバカ話では「宮沢」という名前がやはり出てきておりました。出場機会に恵まれないが、魅力的な選手といえば現在の新潟では真っ先に名前が出てくる選手だと思います。そして今日正式発表がありました、予想された事とはいえ「寂しい」というのが感想です。
私と宮沢のファーストコンタクトは忘れもしない2002年8月7日、J2第23節のモンテディオ山形戦でした。平日のナイターということで仕事を終え急いで新潟スタジアムに駆けつけました。その試合は新人ながらボランチのポジションを張っていた安英学が累積で出場停止、そこで宮沢に出番が回ってきたと記憶しています。その日の新潟のスタメンを振り返るとGK野澤、DF小林、セルジオ、丸山、神田、MF秋葉、宮沢、寺川、ベット、FWマルクス、船越での4-4-2、正直なところ宮沢だけ知らない選手であった。今ほどイレ込んでいなかった当時、全部の選手の名前を知らなかったのである。ベンチには木寺、三田、山形、深沢、氏原といたのだがこれを含めても知らない選手は三田(!)と宮沢で(!)あった。その知らない選手が目の前で2ゴールを決めて2-0で宿敵モンテディオに快勝したのだから強烈な印象を受けました。しかもそのうち1本はFKから直接左足で放り込んだゴールであった。この試合に89分から出場しガツンと行き過ぎて、イエローを貰った高卒ルーキー山形辰徳(確か彼はこの試合がデビューのはずである)と2ゴールの宮沢克行、この試合で二人の顔と名前と背番号が私の中にいきなりインプットされた試合であった。
家に帰り調べてみると宮沢選手は今年浦和から新潟へ移籍したらしい、移籍してきた理由はよく覚えておりませんが、理由はともあれ前レッズ所属、当時の新潟で考えたら素晴らしいキャリアであることは間違いありませんでした。しかし同時にレッズではあれだけのFKを蹴る選手が出されてしまう、レベルの差を思い知らされたような気がしました。この頃はボランチでの起用が多かった宮沢ですが3クールへ入った頃から、左サイドアタッカーとしてベットとの併用が多くなってきました。
そして2003年は左サイドでの起用がほとんどであった。なぜなら山口素弘が移籍してきたため、ボランチに空きポジションはなくなったのである。スタメンで迎えた埼玉スタジアム2002での開幕戦、大宮アルディージャとの試合では終了間際にFKを直接ゴールへ放り込んで、左足が健在であることを証明してみせた。そんな幸先の良いスタートを切ったのだはずであったが状況が一変した、同じ左サイドアタッカーとしてファビーニョが加入してきたのである。左サイドはファビ起用がメインとなってしまい、ポジションを奪われた格好になった。それでもベンチには入り続けることになった、反町監督も宮沢の左脚は必要と考えたのであろう。ファビがダメな時にはスタメンもあったが、控えというポジションでJ2第3クールへ進んで行った。ファビもマルクスと組んで活躍していたので当然と言えばそれまでなのですが。
しかしそのファビが第30節ヴァンフォーレ選で頬骨を骨折、数試合ダメな状況が発生した。そうなれば当然のごとく宮沢の出番である、31節から36節までスタメン出場し6試合3得点と爆発したが、ファビが復帰するとまたベンチスタートに逆戻りとなってしまった。ちなみに昇格争い終盤の第43節アビスパ福岡戦、反町監督は右ファビ、左宮沢という布陣も試している。シーズン通じてスタメン・ベンチを含めてほとんど試合に登録されていた宮沢でしたが、昇格を賭けて戦った最終戦はベンチ登録されませんでした。これは運命の悪戯だったのか?気合いを入れる為に丸坊主にまでなっていたのに・・・。ともあれJ1のステージに上がった2004年、宮沢に転機が訪れたのである。(つづく)
by akihi1971
| 2004-07-14 00:06
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